とにかく書き殴ってみる。
このまま、クーラーの効いた家で寝転がっていたら駄目になる。
そう思って、家を出た。
溶けるようなアスファルトの上で、こんがりローストされながら、最寄りのチェーン喫茶店まで来たのだ。特に美味しいわけでもないコーヒー、特別リラックスできるわけでもない空間に500円を支払っている。この、ただただ作業するには最適の環境で、PCを開いたのだから、文章を書くしかない。
お盆真っ只中、あるいは3連休の最終日であるにも関わらず、一人で何らかの作業・勉強をしている会社員であろう人々で、周囲の席は8割方、うまっている。帰省や遠出をすることが、あたかも普通で幸せであるということが念頭にあるような記述をしたが、誰にも邪魔されず、一人で黙々と作業をこなせるのは幸せなのかもしれない。
ここまで、とにかく思いついたことを無心で、画面に向かって10分くらい、キーボードを打ち込み続けている。レシートには、注文時間として「16時37分58秒」が記されている。いまPCの左下に表示されている時刻は16時54分だ。コーヒーを受け取る時間、席を探す時間、PCを起動する時間を含めたら、なんとなくの時間感覚10分は妥当だったようだ。
とにかく止まってしまったら、何もかけなくなってしまうかもしれない。お得意のネットサーフィンを始めてしまうかもしれない。それを防ぐために、とにかく書き続けている。
表現も文法も全く考え込んでおらず、もしかしたら、メチャクチャな文章が繰り広げられているかもしれない。それでも、振り返らず、とにかく書き続けてみている。
久しぶりにブログのSSLを再契約し直して、このサイトが使えるようになった。それならば、せっかくなら、何か投稿したい。その気持ちだけで、とにかく何かを書き続けている。
私は、中学校のとき、同じ学年の全員が友人だと思っていた。
同級生は皆、友人であることを、疑うこともしなかった。何なら、先輩のことも大好きで、もちろん全員のことは知らないが、関わってくれる一つ上の先輩方にはとてもかわいがってもらった。
学年は140名ほどいたが、全員のことが好きで、廊下をすれ違う各人に対して、一言ずつ声をかけたり、世間話をしたりと、まるでミュージカル映画の冒頭か、ディズニー映画のプリセンスが森の動物たちに声をかけるシーンか?と思うほどだった。
中学校2年生のことだったから、一種の中二病だったのかもしれない。
誰にも迷惑をかけず、互いに楽しかったのだから良いだろうと思っていたが、今、冷静になって考えてみれば、話しかけられる側は、だいぶ迷惑だったかもしれない。
1年生の頃から生徒会副会長、2年生時には生徒会長になったので、知名度は抜群にあったが、その、ただただ知っているやつから、いくら好意的にとはいえ、話しかけられるのはなかなかダルい気がしてきた。
それはもう、取り返せるものではないので、私にできることは、同級生の皆も楽しかったと思ってくれていることを願うだけだ。
この話だけ書いていると、私には究極的にたくさんの友人がいるようにも聞こえる。
中学生時に最低140名の友人がいたのだから、高校・大学・社会人とあれから10年以上の時を経ているのだから、少なく見積もっても200名は計上されないと、合点がいかないものである。
ただ、この文脈からお察しの通り、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」今日という日に、私は一人、近所の喫茶店でこの文章を書いている。
最近は、友人がそんなに多いわけではない。
昨日も帰省していた友人とご飯を食べたし、旅行の計画を立ててラフティングやテントサウナを楽しんだ日もあった。この状況に不満があるわけではない。
それでも、「今日暇だ」と思ったときに、時間を有意義に潰す方法が見つからない。
理由としては、大きく2点あると考える。
友人との調整がつかないこと、もしくは、楽しいことが何らかの制約により実行できないこと、である。
あたかも精査したように理由を記載したが、これも書き殴っている中で思いついたことを並べただけで、特に根拠もなく、このあとの展開も考えていない。
ただ、一度発言してしまったことは、それを前提に進めていくしかないので、1つ目の理由から、コメントをしていく。
私たちは、大人になり、多様な環境で生活を営んでいる。それぞれに不可侵な世界や人脈・コミュニティがあり、休みに対するスタンスが異なってくる。
そもそも、労働時間の多少や休日カレンダーが異なる。友人との時間が物理的に合わなくなり、そこが合ったとしても、互いのやりたいことに調整がつかなくなることもしばしばである。それは、同じような生活を共有していた学生時代、特に義務教育時の生活パターンの時とは大違いであり、一緒に遊べなくなることは、自然なことである。
この奇跡的にやりたいこと・会いたい日時が合致する友人なんていうものは、なかなか作れない。200人もの候補がいつなんどきでも居ようものなら、予定に誘う優先度をつけるだけで疲れてしまう。
「弱い紐帯を幅広く持つこと」が一時の話題になったように、いつでも誘える友人が、以前と比べて少なめになったこと、それはそれでいいのかもしれない。
2つ目の理由で掲げた「楽しいことが何らかの制約により実行できないこと」であるが、これも色々な切り口で議論できるとは思う。ただ、私が最近実感して困っているのは、「楽しいこと」が何かわからなくなったことだ。
奇跡的に調整できた友人と何をするか、何をすべきか、何をしたら最大限に楽しいのかがわからないのだ。それは一人の時間でも、そうかもしれない。一人の休日に何をしたら良いのか、何が一番楽しいのかがわからない。
学生時代は、部活(に関係すること)、朝までとりとめもないことを話すこと(「語る」とか言ってましたね)をやっていたら楽しかった。考えることもなく、とにかくやっていた気がする。大学生になったら、とにかく集まって、美味いものを食べたり、「飲み会」なるものを開催していたら楽しかった。
今は、その時間を潰すのに、何が最適か、何が「一番」楽しいのか、ちょっとハードルをあげて考えてしまう。これも、休みを無駄にしたくない、相手の時間を無駄にしたくないという潜在的な意識が邪魔しており、考え過ぎな気はしている。
意味のないことを楽しめたらそれだけでリフレッシュができるはずであるのに。
これだけ、ツラツラと半自動で頭からでてくる文章をグーグルドキュメントに書き留めていったが、そもそも時間を潰すことに「有意義」を見出さなくてはならないという固定観念が馬鹿げている。現代社会・ビジネス・生産性のような、ある種の伝染病に感染してしまっている感が満載だ。
無意味で、まとまってもいないその場限りの議論にお付き合いいただき、ここに来て、申し訳ない気持ちが込み上げてきているが、どうか友人の他愛もない議論で、暇つぶしができたと考えていただき許してほしい。
文章を書くことは瞑想に近い。
レシートには「16時37分58秒」、PC画面の左下には18時25分。
いつの間にか2時間近くが経過している。
休日に少しの肩こりを感じるのは遺憾であるが、腰に負担をかけながらゴロゴロとYouTubeを見ているよりは、なんだかまともな時間だったかなと感じる。
チェーンの喫茶店で黙々と作業するお兄さん・お姉さん方にならって、たまには、私もこの贅沢な時間を設けてみるのも悪くなさそうだ。
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